7/12/2013

同僚の自殺3

自殺した彼女の生育環境等について
分かる範囲ですが・・・
学力は優秀、育った地区で最も優秀な女子校に進学、そして大学の教育学部へ
「どうしても先生になりたかった」と教師志望が強かった女性

外見から感じる印象もそうですが、話し声はかなり小さめでした。非常に穏やかな性格で大声で笑ったり、興奮して声を荒げることなどなかったと思います。ただ、教師になって故意に声を荒げたことはあるかもしれません。

死後、彼女のご自宅に伺いましたが、ご両親とも温和な方。お盆休みや正月休みなど、帰省した際には父親と二人で散歩に出かけたり、大変仲の良いご家族。このご両親なら感情的になって娘を叱ったりしたことはないだろうと感じました。

優秀な女性でしたので授業なども様々な工夫を凝らしていたようです。たとえばゲームを取り入れながら授業を進めたりなど、授業内容について生徒からの苦情(授業がわかりにくい等)はなかったと思います。
子供たちから苦情が出ていたのは「声が小さい」ということぐらいではなかったかと思います。
保護者との飲み会で「あの先生何?」と訊かれたことがありますが、学校の先生としてはあまりにも大人しいタイプであったため、保護者も若干当惑気味だったようです。

 もし生育環境において「教師として問題になる部分」があるとすれば、あまりにも彼女が穏やかに育ちすぎた点かもしれません。
我々は親や担任に殴られながら育ったし、中学校の場合多くの先生が性格行動面では優等生なわけではありません。だから場合によっては感情的になったりしつつ生徒たちを接するわけです。
しかし彼女は「生徒を叱る」というより「諭す」タイプの先生であったのかと思います。それは教師として理想的な指導法であると思うのですが、子供たちは話の内容や指導形態よりも表面的な威圧感に敏感に反応してしまう。それ故「あの先生は怒っても怖くない」という捉え方をしていたはずです。

 非常に難しい問題ですが、本来なら一人の大人として自分をさらけ出して付き合うことも大切です。しかし反面、教師はパフォーマーでもあります。場合によっては大げさな演技をすることも大切で、その使い分けは非常に大切。それを上手く使い分けできない場合、教師自身にとっても辛いものかもしれません。

新採用教員に対する学校学年のバックアップ体制不足
当時新採用した場合、授業数を少なくして研修に当てるため補充教員を別枠で採用していました。しかし、それらの研修や指導担当教員の話が本当に意味のあるものであったか、それは疑問です。
形式的な講義よりも、ぶつかっている問題にどのように対処すべきか、その方が重要であり、新採用教員が最も望んでいることだと思います。
 学校というのは意外と先生を「放置」します。学年主任などがそばについて細かく指導してあげればよいのですが、面倒臭がってやらない、自分で失敗しながら覚えるものだという職人気質のような一面もあります。
 ある新採用教師が来た時新入生を担任。しかし学年主任は入学式当日に何をすればいいのか全く教えない。その先生が途方に暮れていたのでやるべきことを書いたプリントを作ってあげたことがあります。思った以上に冷たい現場ですよね。

 学校として新採用教員をいかに育てるか、その辺りはまだまだ改善しなかればならない点が多いと思いし、最低でも3年間(中学1〜3年)持つまでは責任をもって育てる必要があると思います。

他クラスの指導をどうするか?
私が彼女のクラスの生徒に対して強い指導を行いましたが、本来それをやってはいけません。
理由は「その先生に指導力がない」ことを生徒が確信してしまい信用が更に失墜してしまうこと、そして本人が自信を喪失してしまうからです。
 ではなぜあえて手を出してしまったのか?
あの時私が考えていたのは「これ以上放置すると他クラスに波及して収拾がつかなくなる」と感じたからだったと思います。事実私のクラスには卒業後少年院のお世話になるほどの奴がおりましたし、各クラスに追随しそうな男子は間違いなくいたのです。学年から学校全体へ影響が出ることを懸念していたのは間違いありません。

 しかし・・・・繰り返しますが、私の行為は本当にやってはいけない。
そのために学年で経験不足や悩んでいる先生をサポートするシステムが必須なのです。もちろんそれは力で抑える指導ではなく、学年全員で模索しながら最善策を打つ対策です。具体的には指導方法を変えることや場合によっては2人の教師が授業、その他の活動を行なってもいいと思います。
 あの当時は学年会でその策を真剣に議論したこともなかったし、もしかしたら今の学校でも同じかもしれません。
別な記事で「中学校の担任は日替わりでいい」と書きましたが、学年全体で子どもたちを見守るシステムができているなら何も問題はないわけです。でも実際は「自分のクラスは自分のクラス、他のクラスは他のクラス」、最終的には「自分のクラスさえよければいい」となってしまうのが現状です。
 また学年会が事務連絡と思っている先生方も非常に多いのですが、学年会の主題は生徒指導、情報交換が最も大切なのです。

教師の個人情報公開

 1,2をお読みになって気づいた方もいらっしゃると思いますが、彼女自身が電話で話していたこと(夜中に呼び鈴を押され、足音が聞こえる)、自殺の全校放送が流れた時に「俺のせいだ」と言って泣いた生徒。

 元担任の先生に対してのひどい仕打ちを反省して「俺のせいだ」ということかもしれませんが、もしかしたら何人かの生徒が夜中に彼女宅に向かい、呼び鈴を押して逃げる行為を行なっていた可能性もあります。(これについては確認していませんので状況からの推測です)

 当時は新採用の女性であっても電話番号と住所を保護者に公開していたと記憶しています。今であればかなり配慮がなされ、せめて電話番号をクラスの保護者に知らせる程度にすると思いますが、年賀状を出すために先生の住所を知りたがる子もいますので、職務上全く公開しないというのも難しいかもしれません。

*************************************
 長々と書いて来ましたが、学校は教師も追い詰められる現場でもあります。

「死を選択した彼女が弱すぎたんだろう」という批判もあると思いますが、教師が様々な個性の子どもたちを尊重しないのと同様、子どもたちや保護者も先生の個性を受容できずに排他してしまう傾向も強いのではないでしょうか?もちろん、同僚教師にも同じ事が言えます。
ある一定の枠組みや価値観によって人を判断し、是と非に選り分けしてしまう。それらが営利目的の企業であればある程度許容される事もあるでしょうが、公的教育機関としての学校ではその選り分けが様々な問題に発展していきます。

 今の学校は、他人から預かった大切な子どもたちを育てているという責任感と状況を見極める的確な判断力、そしてそれらを元にしての行動力、実践力が著しく欠如しています。子どもたちが育つ場所なら若い世代の大人たちも間違いなく育ちます。しかし実状は子どもも大人も育たない、育てられないのが今の教育現場なのかもしれません。

ご質問、ご意見等あればお気軽にどうぞ、お待ちしています!


0 件のコメント:

コメントを投稿