6/30/2013

昔の愛読書(^^)

実はこれ、昔の参考書でした。
その名も「ザ・中学教師 親を粉砕するやりかた」編
初版は1989年、第五刷が1991年となっておりますので、かれこれ22年前の書籍です。

簡単に中身をご紹介すると

  1. 親との戦いはいつも泥沼
  2. 親が子供を偏差値地獄に突き落とす
  3. プロ教師の実践的子育て術
  4. 親の愛情が子供をむしばむ哀しい時代
  5. 戦後民主主義の末路
小項目は更に具体的かつ過激な内容。

  •  書き初め破かれた事件で思い知った溺愛ママの独善性の破壊力
  • 子供のできの悪さを教師のせいにして母親は今日も職員室に怒鳴りこむ
  • 子どもを努力地獄に追い込んだ母親の強迫神経的点数至上主義
  • 学校は子どもを平等に扱う場所 無能な親の面倒をみるところじゃない
  • 偏差値34の子供に高校は無理!親の願いを諦めさせる因果な商売
  • 「やればできる」信仰にすがりつく親と「やってもできない」子どもの現実
  • 親の好みを子供に押し付ける私立中学校受験の理屈
  • 溺愛と盲愛の10年の果てに息子は母親に殴りかかった
  • 問題生徒の母親が必ず口にする「だって家ではいい子なんです」の大嘘
  • 集団登校のトラブルから始まった親VS親の「仁義なき戦い」の結末
  • 不純異性交遊の裏側にある家庭の事情と親の無力
  • クラスに君臨するいじめ独裁者は母親の期待を一心に背負っていた
  • 子持ちの男と同棲した母親の 娘に媚びるしかない地獄の日々
などです。タイトルを見ただけでストーリーが自分でも書けそうなほどです。

 今はモンスターペアレントという別称(蔑称)がありますが、昔からクレーマーはいらっしゃいました。
そういう親御さんたちの実態やら具体的な生徒指導事例が書かれている本でもあります。

 この書籍の内容を見て感じるのは「昔も今も何も変わっていない」ということでしょうか。
ポケベルとか積木くずしとか偏差値という単語が時代を感じさせますが、ポケベルが携帯、スマホに変わり、偏差値が表面化しなくなっただけのような気がします。

 本質的には子どもも大人も昔と何ら変わっていないと思うのです。変わったのはおそらく情報収集伝達手段とその量のみ。

 20年以上前、いやそれ以上前からですが、日本の教育は荒んでおります。
それに輪をかけて臨教審とか中教審、金儲けしか頭にない政治屋さんたちが脱偏差値教育、ゆとり教育、等々の対症的かつ永続性のない施策を行ったためにさらにボロボロになったわけです。彼らが行ったのは上辺だけの改革であり、根底にある学力偏向主義は何も変わっていない、だから何をやっても長続きせず同じ事の繰り返しになるわけです。

 そもそも日本には武家社会から伝わる立派な教育方針があったはずです。
その日本の素晴らしい教育指針を無視して「西洋かぶれ」したため、本来受け継がれるべき日本人の誇り、魂、伝統などの精神文化が蔑ろにされてしまったのです。

 すぐ傍に良妻賢母と言える女性がいるのに、外のきらびやかな衣装を身につけた中身があるかないかわからない女性にうつつを抜かしているようなものではありませんか!
だから、そのツケは非常に大きいのです。失ってしまったものが大きいのです。
今やるべきは生涯添い遂げるべき女性に誠意を尽くしてひたすら愛すること、それのみ。

日本の教育を今確立しなかったら、この国は2011年を皮切りに完全崩壊に突き進むように思いますが、みなさんいかがでしょうか?

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この書籍以外にも 
ザ・中学教師 「ふしぎの国の中学校」に生息するセンセイたちのありのまま
という書籍がありました。

ま〜、つまり親も親だけどセンセイもセンセイなんです。
みんなで堕落の一途をたどり、お互い避難しあって責任転嫁という程度のものです。

6/29/2013

この性癖だけは発見しようがないのではないか?

Reading:小学教諭 女児着替え室にカメラ NHKニュース  http://nhk.jp/N48D6a21

 もう教育界はネタの宝庫すぎて嬉しいやら悲しいやら情けないやら・・・

この趣味とか性癖とか個人の嗜好に関すること、こればっかりは採用試験でも面接でも見抜けません。
採用決定はバクチでね。

 昔読んだ記事で、SMクラブが摘発された時に、顧客の中に大学の先生とか医師とか社会的には先生と呼ばれる堅い職業の方が多く名を連ねていたと書かれていましたが、社会的地位や職業などでは本当に人間のすべてなんかわかるものではありません。
難解な物理学の講義をしている先生が、深夜は溶けた蝋に悶え狂ってるとか・・・想像するだけでもおぞましい光景でございます。

 ちなみに高校の時の古文の先生はご趣味がSMらしかったのです。
書店でSM雑誌を購入している現場を同級生が発見。ご自宅に大きな蔵があったことからそこが怪しいと噂になったものでしたが、現在も確認は取れておりません。
もう1名、倫理の先生はブルーフィルムで捕まったことがあるそうで、その先生授業中に曰く
「人間、我慢をしすぎてはいけない」
と深いお話をされ、一同爆笑致しておりました。

まぁ、周囲の人間がどう思うかは別にして、人様にご迷惑をお掛けしない、触法行為でなければとりあえずはOK!!

 しかしトイレを盗撮するとか、胸に触りたかったとか、感覚が異常で理解不能です。
やはり日本の教育はおかしいのでしょう、学力はそれなりにあっても一番大切な心の部分が欠落して、制御不能状態です。

これに関しては良い方策が見つかりません。
採用試験に興奮度テストなるものを作って、嘘発見器のようにグラフ化するかタイツでも履かせて形状変化確認でもするしかないでしょうかね?

被害者のお子さんの心の傷のことを思うと、こんなことを書いている場合ではないのですが、本当に防止具体策が思いつきません。

ということで、また色々考えてみます。

家庭訪問の目的

 ツイッターの友達がお子さんの家庭訪問後にえらく憤慨されてた。
理由を尋ねてみたら、「担任の先生は子供の短所だけを羅列し、長所は何一つ聞くことができなかった」そうです。
 親としては学校での生活の様子や家とは違った視点で長所を見つけてくれるのでは…という期待もあったりするわけですが、それがひとつもなかったそうです。
逆に先生としては、家庭での生活を聞くことによって気付かされることも多いはずなのですが。

 あまりにもひどい家庭訪問、その親御さんは「もう家庭訪問はしてもらわなくていいです」とい仰ってましたが、当然そうなりますよね、有給を取ってまで子供のために時間を割いたわけですから。
親御さんの悲痛な声に同情しきりでした。

 この担任の先生、家庭訪問の捉え方が間違っています!
根底にあるのは今までの自分の価値観、そのたった一つの物差しだけなのでしょう。
色んな子供たちがいて、ひとつの物差しだけでは良さを見つけることなんでできないのです。だから教師は引き出しの数と物差しの種類の豊富さが大切。
この先生には今の時期に教師として大切なことを指導してあげないと、後々取り返しの付かない失敗をしてしまうと思います。

さて、家庭訪問は何のために実施するのでしょうか?

参考までに、Wikipediaではこのように解説されています が、自分なりに解説すると下記のようになります。

  • 地理的位置を把握するーーー家庭訪問以外でご自宅に伺うことはめったにないのですが、怪我をした場合に送って行ったり、不登校気味になった時迎えに行ったりと、緊急時の対応を含めて自宅の場所を確認する必要があります。
  • 家庭での様子を確認するーーーこれは保護者の方から学習や生活の様子をお聞きします。また趣味とか友人関係とか、勉強の様子とかお聞きするわけです。場合によってはお子さんの部屋を見せていただくとか(これは子供たちが最も嫌がります)
  • 家庭での問題点がないかーーー言葉遣いが荒くなったとか、口数が少なくなったとか、暴力的になったとか…特に保護者の方が気になっていることをお聞きします。
  • 学校の生活や学習の様子を伝えるーーー学校では各授業や行事、学級での活動などがありますので、それについて気づいたことを伝えますが、基本的には長所を伝えます。
  • 通学路の安全を確認するーーー教師自身が確認したことに加え、保護者の方が安全面で気になっていることを確認します。
 地域によって家庭訪問であったり、単なる家庭確認であったりします。
単なる家庭確認なら車やスマホの地図に登録して確認すればいいだけの話。
時間給をとってまで玄関先でたった5分ほどしか話せないのなら、家庭確認はいらないです。

 教師は家庭訪問に割いていただく20分ほどの時間に、どれほど子供たちのことを観察していたか、長所を見つけることができているかをアピールする必要があります。(と同時に観察すべき点は観察し、聞くべきことはうまく聞き出す)

子どもの長所を知る、それで親御さんがどれほど喜ぶか・・・子どものマイナス面は親が嫌というほど知っているわけですからね。

家庭訪問の目的は、子供たちを見守り育てるための情報の交換と共有です!


児童切りつけ事件

練馬児童切りつけ:無職男を殺人未遂容疑で再逮捕 警視庁 http://mainichi.jp/select/news/20130629k0000e040204000c.html

大事に至らなくて本当によかった。

第一報を目にした時、「池田小事件」を思い出してしまった。

 こういう事件が起きると学校や行政は行事の自粛や警備の強化を行う。
それは当たり前の事なのだが、裏を返せば「事件が起こらなければ、日頃はそういう安全対策を行なっていない」所がほとんどではないだろうか?

 池田小の事件の後も警備員を配置したり、登校後の施錠を確実に行ったり、不審者用の防具を配置したり、様々な対策を講じた。
しかし時が過ぎると、その当時の危機感など消滅してしまう。
日本人特有の「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という性格そのもの。(それが長所になることもあるが・・)

 学校というのは子供たちの身の安全を保証することが第一の責務。だから不審者に対する安全対策の校内研修会や外部研修も定期的に必要となるし、学校の年間計画に安全指導を位置づけ、それを実施して教職員の意識を高めなければならない。そして、「ありえないだろう」と思いつつも、訓練を実施することが功を奏する。

事が起こってからの事後の対処では、失われた命は戻ってこない。

※犯人が「黙秘します」と言っていながら、犯行理由については「意味不明の説明を続ける」と記事に記載されている。法律の壁を逆手にとった悪質な確信犯という印象も拭えない。こういう犯罪者は今後増加してくるのではないかと危惧している。

6/28/2013

同じ管理職、でも企業と学校は違うよ!

「橋下市長“目玉改革”に暗雲? 民間公募校長3カ月で退職 退職理由「言えない」」:イザ! http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/664765/

38歳の若さで外資系証券会社から校長に採用された千葉さんが3ヶ月で退職。
具体的な退職理由はまだ言えないということで、憶測でのコメントになりますが・・・。

【同じ管理職でも学校と企業は全く違う】
企業の管理職なら机上のパソコンを眺めて数字を追いかけていればその先の対策やら指示やら方針が見えてくるだろう。しかし学校の管理職は校長室にいるだけでは何も見えてこない。
自ら学校を巡視したり、子どもたちにとけ込んで様々な情報を収集を行わない限り、現状の問題すら把握できない。

企業の利益追求の管理職感覚では対応できない職務である。

中にはよほど教育熱心で、自分が理想とする教育像とか確固たる教育観を持っていて、その目標達成努力が学校現場管理に合致する場合もあるだろう。

しかし、自分が児童生徒としての経験しかない人間で、民間企業では評価が高かったとしても、それは学校を管理する能力とは全く別もので使い物にならない可能性が高い。

【学校を生かすも殺すも教諭が鍵】
 小学校の場合、各クラス担任は朝と夕方しか職員室にいない。
校長が自分の意見を伝えられるのは、短時間の打ち合わせか職員会議等のみ。
その与えられた短時間で職員に自分の意志を伝え、目標達成のために教師たちの行動を変革しなければならないのである。
 つまり校長は職員の指導力を知るために全クラスを訪問し、どんな授業をしているか把握する必要があり、それを怠ったとしたら何も把握できない。

 教師たちは子どもたちよりも我がままである。校長と面談している時は話を聞いている振りをしても、いざ授業にいけば校長の話などすでに忘れているし、子どもたちと楽しくやれればその他はどうでもいいと思っている。

そんな教師たちを引っ張るのであれば、教師たちの力量を上回るだけの何かを持っていない限り、校長のみ校内で孤立するだけとなってしまうだろう。

 教師たちをうならせるだけの何かを、この38歳の外資系証券マンであった千葉さんは持ち合わせていたのだろうか?

【保護者との人間関係】
 これを良好なものにする事は不可能だったろう。
例えは悪いが、校長は社長、教師は社員、生徒は顧客、保護者は株主。
すでに社員と顧客、株主の関係が出来上がっていれば、新任社長の品定めしかないのである。社員が持つ社長の評価や評判がそのまま株主に通じる事になり、時を要する事なく社長交代劇、追い出し劇が始まる。

逆に質が低く問題が多発しているような学校であれば、校長は評価を短期間であげることができるとも言える。

問題が起きたとき、38才の若造の言う事を保護者たちが「はい」と素直にきくだろうか?
結果的に校長がやり込められて迎合してしまうことになるのではないか?

民間企業なら金で解決できるしできた。最悪の場合裁判を起こせばいい。
しかし学校現場でそれは不可能であるし、ご法度でもある。

【子どもたちをどれだけ把握できたか】
 新任校長が子どもたちの事を把握しようとどれだけ子どもたちの中に入って行けたか?
民間公募校長にとってはこの点が最も重要(民間でなくても重要)。

校長にとっては子どもたちからの有益な情報が教師を指導し、学校を経営するための肝なのだ。また場合によっては現在の教諭に不満を持つ保護者から貴重な情報を得ることもある。

子どもたちはこの校長先生をどう思っていたのだろう?心をひらいて気軽に話せるだけの存在と思っていただろうか?
もしそう思っていたとしたら、この千葉さんは退職することはなかったと思うが・・・。


 これだけ色々書いておいて、では管理職は現職の教員しかできないのか?と思うかもしれないが、それはそれで能なし教頭が多くで辟易している。

 学校という所は、本当に力のある教員は管理職にならないのです、否なりたくないのです。それはいつまでも子供たちを関わりを持っていることが楽しくて仕方がないから。
だからごく一部の有能な教員以外は、現場で使いものにならない人間が管理職なるのです、それが現場(生徒と教師)への害が最も少なくなるのです。

視点を変えて〜オランダの教育

すでにご覧になった方も多いかもしれませんが、まずは動画をご覧ください。



チャイムなし、時間割なし(自分で時間割を組む)学校は数は少ないですが日本にもあります。

でも学区なし、教育方針も各学校に一任、授業料は全て無料、これはすごいですね。
子どもたちが最も喜びそうなのが、テストなし、宿題なし。
そしてクラスは同年齢のこどもたちの集団ではなく、日本でいう複式。

学びの基本は学校、授業がすべて。

今の日本の現状からは考えられない教育システムです。

日本は学力がすべてであり、最終的に受験のための教育システム。
だからさらに高い学力を求めて塾に通う。
でもその学力はいい大学に入り、少しでも就職を有利にするためのもの。
日本の教育は競争に勝つための手段。

では、日本ではそのエリートと称される優秀な人々が成熟した人間であり、その能力の高さを生かして社会的責任を十分果たしているのだろうか?と考えると、懐疑的にならざるをえない。
特に震災後はエリート企業や官僚、政治家の人間性の欠如があらわとなり、日本という国はこの程度の国だったのかと失望するばかりである。

やはり時間をかけて日本の教育システム、教育機関のあり方について、根本的に見直さなければならない事も多いと思う。ただしそれは単なる外国の模倣ではなく、日本の伝統的な文化や精神を礎としたものであるべき。

オランダの学校の動画で気になるのは影の部分。
上の動画が世界最先端の光の当たる部分だとすれば、必ず影の部分もあるはず。
その影の部分にどのように対応しているか、その辺が興味深い所。
一部の素晴らしい学校を取材して放送するなら、日本にも世界に誇れる学校はありますから・・・。教育と福祉に関しては、やはりトータルで評価しないとダメだと思うのです。

6/27/2013

外来語・カタカナ大好きな日本

「外国語使いすぎ」NHK提訴の男性に専門家も「心境は十分わかる」 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130627/trl13062710070000-n1.htm

この記事を読んで思わず納得してしまいました。

この男性はNHKを提訴したわけですが、そもそもNHKだけの問題ではありませんよね?
すべてのメディアが同じ傾向になっているわけです。

また、メディアばかりではなく政治家だって同様。
これだけ高齢化している中、カタカナ多様の演説とか公約とか・・・見聞していて「お前ら日本語をきちんと話せないのか?これじゃじいちゃん、ばあちゃんは全くわからんだろう?」といつもながら感じるわけです。

固有名詞あるいは日本語訳にはないものであればカタカナ表記もやむなしとは思いますが、日本語に訳語がある単語にもかかわらずカタカナ表現、もしかしてカタカナを使うということは自分たちがいかに時代の最先端を行っているかとか博識だとか、能力が高いとか、そんな勘違いをしているんじゃないか?
メディアも政治家も共通点は金に弱い、そういう人間、業種の特徴が無意味なカタカナ使いなのかもしれない。

はい、ここまでが長い前振りです!

 この傾向、教育についても全く同じ事が言えると思うのです。
口では愛国心とか、日本文化や伝統といっておきながら頭の中は常に外国向き。諸外国のシステムを取り入れれば今抱えている諸問題が解決されるのではないかという勘違い、それは日本固有の素晴らしさを全く理解していないからですよ!

日本固有の大切なものをないがしろにしてきたから、こんな日本になってしまったんじゃないの?
日本の言葉とか文化、精神、その洗練された美しさとか感受性とか崇高性を語り伝えるのが教育の大切な役割のひとつだと思うのですが・・・。

みなさん、どう思われます?

先生見逃さないで!

東京新聞:高崎の児童生徒いじめ問題議論 「やり方変わっていく」「先生見逃さないで」:群馬(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20130626/CK2013062602000162.html

 子どもたちからの指摘、重く受け止めなければなりませんね。

「やり方変わっていく」
 より陰湿で見つかりにくい方法を選択していじめているという実態があるのでしょう。
授業中の雰囲気で「変だな?」と気づくことがあったのですが・・・それは特定の子が指名されると一部の子の態度に変化が見られたとか、周囲の反応が明らかに違うとか。
しかし、先生の前ではその雰囲気すら感じさせないようになっているのかもしれません。

「先生見逃さないで」
 子どもたちはいじめの当事者以外でもサインを送っていることが多いのです。それは言葉で伝えることもあるし、作文の中に書かれていることもある。多くは授業の雰囲気の一部として発信されているように感じます。
上記の雰囲気の違いもそうですが、その「いつもと違う雰囲気」や「送られたサイン」を見逃すとすべて後手の対応になり、結果的に傷口が大きくなってしまいます。
「何も感じてくれない先生が多い」という現状が「先生見逃さないで」という言葉に凝縮されているということです。

 教師が場の雰囲気を敏感に察知して行動を起こす・・・この敏感に察知できるかどうかが最も大切なのですが、この感覚は一朝一夕に身につかないのが難しい所。よほど注意深く観察しない限り見えてこないのです。しかもその感覚には個人差があり、しかも激しいのです。

この感覚をいかに身につけるか、教師の資質としての最重要課題かつ最難題と言えます。

6/26/2013

専門に学んだ人間が犯しやすい勘違い

 子供たちに楽器を教えていると、「このぐらいはわかっているだろう」と思うことを、実は子供たちが全然わかっていないことが多い。

「この程度のことはわかっているはず、できるはず」

 これは専門に勉強してきた指導者に多く見られる傾向であり、自分の過去の経験と長い年月をかけて学んできた「いまの自分の視点」でしか見ることが出来ないことに起因する勘違い、思い込み。

 逆に初めて指導する人間は自分の経験がないために一生懸命学習する。
スタートラインは生徒と全く同じあり、指導する側としてとにかく本気で勉強する。教えてもらう生徒とすれば多少心許ない面もあるだろうが、真摯な姿勢で教師が共に学ぶ姿に不快感は感じないだろう。
その結果、数年の時を経ると専門に学んできた人間の指導力を遥かに凌ぐことがある。

 子供たちを目の前に指導する場合、まず自分ができなかった頃に立ち返ることが指導の原点となる。
「こんなことも知らないの?できないの?」と口にしたくなるかもしれないが、そこはグッと堪えて子供たちそれぞれの躓(つまず)きの原因を究明する。
具体的な躓き解消法を提示してあげれば、子供たちは思いの外すんなり問題を自己解決してくれることが多いし、次の壁にぶつかるまで意外に上達に時間がかからないものである。

 もう一つ、子どもたちの能力の限界を勝手に決めないこと!
音楽に関して言えば、子どもたちは楽器奏法の基礎を正しく学んでおらず、ほとんど独学であるということを前提にしなければならない。だから最初の数ヶ月は指導者が手間ひまかけて基礎をしっかり教えることが必須。
実はこの基礎段階は最も大切で、将来その子が音楽の道を目指した時に弊害にならないよう指導しなければならない(こう書かれるとプレッシャーがあるかもしれないが、事実でもある)。
この点についてはまた別記事で書きたいと思う。

 指導者が「いい演奏を!」と思っているのなら、子どもたちとともに学ぶ姿勢と自分ができなかった頃(初心)を忘れてはならないし、手間ひまをかけるべき時にしっかりかける、これが大切です。

 言うは易し、書くは易しで実際大変なことは重々わかる。
でも今の環境を与えてもらったことに感謝して頑張ろう、指導者諸氏(^^)

いじめ防止法

「いじめ防止法成立 「意識高まる」一方、「教師の負担増」」:イザ! http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/664142/

いじめ防止法が成立、学校に通報義務…今秋施行(読売新聞) - Y!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130621-00000476-yom-pol


 結論から申し上げると「極端に効果は上がらない」だろう。

 いじめはある日突然始まるわけではない。必ずその前段階があり、その段階を経て徐々にエスカレートしていくのである。
そのいじめに至るまでの段階を、クラスや同じ部活動の子どもたちの数名以上が必ず目撃している。

その前段階で適切な指導と処置を講じない限り、いじめは減らない。

 前段階においては教師の観察力、洞察力、直接的な指導力が問われる。つまりいじめを減らすには、教師として卓越した眼と耳と持ち、生徒と保護者からの信頼に足る指導力のある教師の育成が最も肝要であるということだ。
それを差し置いていくら法整備したとしても、結局は事後処理に過ぎず、被害者となる子供たちがあとを絶たないだろう。法整備しても、生徒の死後に謝罪会見で「いじめだとは認識していなかった」「本人が否定したのでいじめが原因で自殺とは思えない」等の発言が今後もなくならないだろう。

まず教育現場としては、教師としての磨きぬかれた鋭敏な感覚と指導力の育成が急務なのである。

 もちろんこれだけでいじめがなくなるとは思えないが、指導力のある教師が多い学校は教師と生徒の信頼関係が築かれていることが多く、いじめ等の情報が教師の耳に入りやすく初期段階で対応できることがほとんどである。そういう学校の雰囲気があるだけでいじめや非行が激減するものである。

6/25/2013

日本人の心のあり方、生き方

 まずはある書籍の目次をご覧ください↓

1.世の役に立つ人になろう
2.智恵のある人になろう
3.お金よりも智恵を残そう
4.どんどん自分を磨いていこう
5.毎日学ぶことが一番大事
6.相手を思いやる心を持とう
7.勉強のすすめ
8.覚悟を決めたらやりとげよう
9.自分から積極的に学ぼう
10.繰り返しのすすめ
11.良い仲間と切磋琢磨しよう
12.努力をすれば花が咲く
13.目上の人を尊敬しよう
14.一生の友だちをつくろう
15.人間として大切なもの
16.落ち着いた気持ちをつくろう
17.「慈・悲・喜・捨」の四つの心を育てよう
18.幸せな人生を歩くためには
19.お年寄りと小さな子を大切に
20.まず相手を大切にしよう
21.「人のため」が「自分のため」になる
22.ともに悲しみ、ともに喜ぶ
23.いいことはすぐにまねしよう
24.親切は必ず報われる
25.偉くなっても忘れてはいけないこと
26.油断しないで学び続けよう
27.読み書きは人生の基本
28.学問をすることは命を養うこと
29.学びの第一歩となる『実語教』


この目次は、[現代語抄訳]言志四録 という書籍の目次です。(上の目次はこのページのレビューより引用致しました)

 目次を見ただけで何か感じるものはありませんでしょうか?

いじめやその他の問題で法整備がなされていますが、もっと人としての生き方、あり方に影響が大きい思想を見直すべきなのではないでしょうか?

 法整備は確かに対症療法的効果はあると思いますが、それはあくまで対症療法的であり人の心にまで響かないこともあるはずです。
それに対して、幼い頃に学んだ生き方としての指針はおそらく死ぬまで心に深く刻まれているでしょう。

ものは豊かになった、生活も快適になった、便利になった、しかし根底にあるべき心を喪失してしまった。それが我々の生きている今ではないでしょうか?
今の日本に必要なのは、古くから語り継がれ忘却の彼方に追いやられてしまった日本人の教え、心ではないかと思うのです。

6/24/2013

『社会的な親』の存在

移転も完了したので久しぶりにブログ投稿、本当に久しぶり。ネタは腐るほどあったのですが、書く気力も失せていたというか・・・

さて、教育イザ!というサイトさんがあるのですが、教育関係の記事を専門に掲載されています。そこで見つけた記事についてちょっと書きたいと思います。
まずは記事をご覧ください。

「かくれんぼができない子供急増…いじめ遠因に?」:イザ! http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/664352/
衝撃的な一文「かくれんぼができない子どもたちが最近急激に増えている。
そして「一人になることを怖がる。これが見て見ぬふりをするいじめの遠因」
最後は「子供を見ているのは親と教師だけ。社会的な親の存在が大切になってくる」
大学の先生が調査された内容だそうです。
かくれんぼという遊びは一人になる怖さを伴うということですが、たしかにそれはあるかも。たった一人で鬼に見つかるまでじっとしていなければならないし・・・。缶蹴りもよくやった遊びでしたが、連続して鬼になることもしばしばだったと思います。

でも昔はいじめの遠因にはなりませんでしたよね?

子供たちを取り巻く環境は、技術のの進歩とか発展によって間違いなく変わりました。
しかし、子どもの本質自体は何も変わっていないと思うのです。
ではいったい何が問題なのでしょうか?

【希薄・表面的・情が通わない人間関係】
今の子供たちは本音をぶつけあって人間関係を築いているでしょうか?
泣いて笑って喧嘩して、そしてみんなで怒られたり・・・こんなことが普通にあったのですが、今はそこまで感情を顕にすることがなくなってきているのかもしれません。

今の人間関係はガラス細工のように繊細かつ脆いと感じます。しかもそれは子供たちだけの問題ではなく大人たちにも共通して言えることだと思うのです。
しかしそのまま細工が壊れないように保つことができるのかといえば、SNSを使ってリアルでは決して言えない事を書き残し、結果的にそれが発覚していじめ化してしまう。

大人ですらそのような状況ですから、その環境の中に置かれた子供たちは尚更敏感にその雰囲気を感じ取り、対面では体裁を取り繕ったり、自分の存在の確保や保身に走ってしまうのでしょう。

【地域が子どもを見守る】
もう20年以上前から「家庭・学校・地域の連携」が叫ばれていますが、実質的には形骸化してしまうことがほとんどです。なぜなら、更に一歩踏み込んだ連携まで及んでいないから頓挫してしまうのです。
何とかしなければならないと思っている大人が多い反面、変わり果てた大人の価値観が障壁となって子供たちを守り切れない、そんな印象です。

だから『社会的な親』の存在ということになるのでしょう。
おそらくは専門的な資格や経験のある方が担当されることになると思いますが、それだけでは手が足りなくなるのは明らかだと思います。

大切なのは「子供たちを育てる」ことに関して同じ認識や価値観を共有することだと思うのです。そのベースになるものが確立されない限り、地域を含めた社会全体で子供たちを見守り育てることはできないと思うのです。

昔は「社会的な親」が結構いたんです。それは近所のじーちゃん、ばーちゃんだったのですが、コミュニティーをまとめる存在としても非常に大きかったし、言うことは言ったけどやることはやった方々でした。

現代は生活音やピアノ、風鈴の音一つで隣近所から苦情が来て、最悪殺人事件にまで発展してしまう、そんな世の中です。
しかし、今子供たちのために大人が意識改革をし、それを実践しなかったら、子供たち、いやに日本の将来は暗澹たるものになってしまうと思うのです。
数十年後の日本を夢見てできることから1つずつ改革する、それが今の私達に課せられた重い課題です。