1/30/2012

部活動のあり方

昔、転勤後にある部活動の顧問を任されたことがあった。

あるお母さんと懇親会で話したら
「うちの子は今先生が顧問をしている部活に在籍していたけど、クビになりました。まだ中学生なのに大人が解雇通知をもらったのと同じです。これが教育的なんですか?」

そのお子さんが部活動在籍中にどのような状況であったかとか、前顧問の指導とか、友達関係とか全くわからなかったが、「クビ」という通告はひどいし、教育的だとは思えないと共感した。
内情が分からないので具体的なことは書けないが、自分たちの居心地がいい場所を作るために同調できない、あるいは同調しない子を追放しただけに過ぎないんじゃないかと感じる。

子供たちは共感できる友だちを常に求めるし、その価値観に合わない子は排除しようとする傾向が強い。でもそれはその年代の子供特有の症状(実は大人になってもあると思うけど)であって、驚くほどのことではない。
驚くのは教師が自分が担当している部活動に所属している生徒に対して「クビ」を通告することだ。
つまりそういう先生は、生徒と同様に自分も居心地の良い場所にしたいわけだ。

しかし、学校の教育活動の一環である部活動指導として考えれば、生徒に「クビ」を通告する措置は間違いである。教育的指導という観点から言えば、友だちとのトラブルが多い子だったとしてもそれを地道に支援しながら背中を押してあげることではないだろうか?

私がかつて担当した部活動、総勢95名の大所帯になったことがある。男性は5名、残りはすべて女子生徒。
なぜそれほどの大所帯になったかというと、おそらく運動部と違い全員がレギュラーであり、大会に参加できることだったと思う。

しかしトラブルもあった。部長から直訴されたこともあった。
どんな直訴かというと「先生、あの◯◯さんは他の部を退部してうちらの部活に入ろうとしています。絶対に入れないで下さい」

その後、その◯◯さんが入部したいと申し出たので私は受諾。
部長や副部長から猛抗議があったけど何とか説得して受諾してもらった次第。

その時部長たちに話したのは
「中学校の部活とは嫌な子を拒絶したり、意にそぐわない者を排除する所ではないと思う。自分から入りたいと申し出てきたという事は、『今の自分を変えたい』と本人が願っている証拠ではないのか?だから結果的に上手く演奏できなくとも、出来る所だけ演奏して本番に出れればいい。
顧問としては『来る者拒まず、去る者は必死になって引き止める』、そんな部活動にしたいし、最後の砦であるうちの部活でその子を救ってあげられたら最高だと思う。」

部長たちは渋々納得したが、結果的にその〇〇さんは引き止めたにもかかわらず数ヶ月後に退部してしまった。

中学校の部活動、価値観を何に置くべきかで随分と指導が変わってしまう。
しかし、最も大切な事は子供たちが自信を持って活動でき、自分の居場所を確保できること、存在価値を見いだせる事だと思う。
子供たちが楽しんで活動できる部活動であれば、必然的に大会の結果もついてくるんじゃないか、そんな気がする。
事実、指導力のある先生はそれを実践しているし、実は目標はたった一つであり、それをどれだけ本気になって追求できるかなんだろうな、きっと!

1/29/2012

親の影響力

突然昔のことを思い出したので・・・

ある学校に赴任していた時のこと、2年生に「将来大物になるのではないか」と危惧されていた男子生徒がいた。
部活動の中心メンバーでもあったことから友だちへの影響力もあった。威圧して簡単に旧友をねじ伏せるだけの力は間違いなくあったと思う。

担任の先生(50代女性)二者面談、三者面談を通して指導を継続していたが、特に生徒自身に変化は見られなかった。

時は流れて卒業式後の謝恩会。たまたまその男子生徒の父親と話した。
失礼だとは思ったが、自分が疑問に思ったことを素直にぶつけてみた。
その疑問とは、あれだけ大物になると思われていたのにもかかわらず、その子がマイナス方向に成長せず、存在感が薄れるほどに大人しくなってしまった事についてだった。

話を聞き終えた時、理屈とか一般論で無難な方向へ誘導する教師の無力さを痛感したと共に、親が本気になった時の教育力(=愛情)に勝るものはないと思った。


「卒業おめでとうございます。息子さんえらく真面目に頑張っていましたね。途中から存在が感じられなくなるほど穏やかになっちゃいましたけど・・・」

父親
「先生、俺もあの頃は息子がこのままではとんでもない事になってしまうのではないか、と心配だった。」

私「じゃ、お父さんもかなり厳しい指導をしたのですか?」

父親
「いや、それはうちの息子には逆効果だと思ってやらなかった。だから当たり前のことを毎日やろうと考え、実践したんだ。」

私「毎日の実践とは一体何ですか?」

父親「恥ずかしい話だけど、俺はほとんど息子と一緒に食事を取ったことがなかった。朝は早めに仕事に出かけ、夜は一杯呑んで帰るので帰る頃には息子は寝ていた。だから朝と夜は必ず夕飯を息子と一緒に食べるようにしたんだ。」

私「他にもあるのですか?」

父親「いや、俺に出来るのはそれぐらいしかなかったので、それだけだよ、先生」


1/04/2012

子供たちの自殺(1)〜教育機関

子供たちの自殺、これほど心を痛めることはない。

小学生、中高生も短絡的(この言葉は適切ではないのかもしれない。考えぬいた挙句の結論なのだろう。あくまで第三者が使う言葉か?)に死を選択してしまうことがあり、しかも死の連鎖を引き起こすことも過去に多々あったように記憶している。

相変わらずいじめによる自殺が跡を絶たないが、ほとんどの場合いじめた子供たち、亡くなった子供に寄り添っていた子供たちも深い傷を負う。おそらく彼らの親御さんも同様だろう。
そして、大人になってもふとした瞬間にその辛い思い出が脳裏をよぎる。おそらく死ぬまでその辛い思い出を引きずっていかなければならないだろう。

しかし、現場の教師たちや教育委員会、教育事務所等、尊い命が消えたこと、一人の子供の死をどれだけ深刻に受け止めているのだろうか?

私の目には、教育関係者が「命の尊さ」よりも「表沙汰にならない事」を優先しているように思えてならないし、彼らにとっては「事実が表面化しないこと」が最優先課題であり、「自分たちの責任を問われないこと」が最も大切なのだろうと感じている。
もしも自分が管理あるいは担任しているクラスのこどもが自ら死を選び実行したら、職を辞すべきか悩む、職を辞さずとも少なくともその後の教師人生が一変する筈であり、それが人としての通常の感覚だろうと思う。
しかし今の教師という職に就いた大人たちは、自殺が起きれば管理職が緘口令を敷き、公にならないことだけを祈りつつ、公になった場合の対処のみ綿密に教育委員会と連絡を取り合っている。
マスコミでの会見はあくまで「その場しのぎのパフォーマンス」であり、事前に練りに練られた内容なのだ。(練りに練ってあの程度か?

「今後同様の事故が起きないように指導を徹底します。」
次から起こさないのは当然であり、一番問題なのはなぜ今回起きてしまったか?学校としての指導の問題点は一体何だったのか?それを明確にして自覚と指導内容を改善しない限り、ほとぼりが覚めた頃にまた同じ事故が起きる。

個人的には良い教師もいるが、その質を向上させるだけのシステムがない。システムとしてあるのは上司の命令を忠実に守るか、上司の指示がない限り行動してはならないという公務員独自の閉鎖的体質(職によっては命を救うためにその命令系統が必要な場合も当然ある)。「自ら考え行動できる生徒」と育成すべき教師が、指示がないと自分で行動すらできないのだ。

もう今の教師たちの指導力では子供たちの命を守ることはできないのかもしれない。
事実、放射能から我々の子供たちを守ろうとしなかったではないか?