2/26/2011

幸せになる秘訣

From Evernote:

幸せになる秘訣-Facebookの友人のWallから

いつだったか、Facebookの友だちのWallに掲載されていた文です。
お名前、忘れてしまいました、ごめんなさい。
あまりにも素敵な教え、生き方の指針だったので心に残っています。
著作権上問題があればご連絡下さい。すぐに削除します。

『幸せになる秘訣』
だれかに善きことをしてもらったら、けっして忘れないようにしましょう。
だれかに悪しきことをされても、それは忘れておしまいなさい。
同様に 誰かに
一度でも愛してもらったことは、けっして忘れないようにしましょう。
それはあなたの永遠の宝物なのです。
だれかを一度でも愛したことがあったら、それは忘れておしまいなさい。
それは相手にあげたプレゼントなのです。
その愛はすでに相手のものであって、あなたのものではありません。
有形のものでも無形のものでも、もらったものに感謝し、与えたものはさっぱりと手放すこと、
それが幸せになる秘訣ですよo(^-^)o
(82歳の女性より。
「亡き母からの教え」)

2/18/2011

外国語以前に大切な物

小学校から英語の授業を取り入れたり、海外における日本人の英語力が問われ、英語教育の重要性が叫ばれているが、特にそれについて異論はなし。外国人とのコミュニケーションを図る手段としてはいいことだと思う。英語以外の言語でも勿論いいわけだし・・・。

もしも自分が他国の言語を思い通り使いこなせるとして考えてみた。

私は一体相手に何を求めるだろう?

当たり障りのない日常的な事を皮切りに話を進めると思うが、私なら最終的に相手の国の文化、歴史、政治、思想について聞いてみたいと思うだろう。
昔、学校ではこのように教わったが実際はどうなのか?あなたの国の精神文化はどうなのか?今の国の現状についてはどうなのか?それについてあなたはどう思うのか?
おそらく、外国人も日本人に対して最終的にはそれらを求めてくるのではないだろうか?

そうなった時に母国の歴史、文化、政治、経済、思想、精神文化についての見識、知識が乏しければ
「こいつは自分の国のことも全くわからない」という烙印を押されてしまうし、私自身も「この人は深い話をするだけの価値のない人」と判断してしまうだろう。間違っても相手のことを知性的な人間とは思わない。

言語とはあくまで手段であり、単なる道具にすぎない。道具をいくら揃えたとしても使いこなすだけの技量や相手が納得するだけの技量を持っていなければ、稚拙さを露呈するだけの話である。
つまりその技量とは、「日本人として母国語、歴史、文化、思想、精神文化を学び、知識として蓄え、自分の中で咀嚼し、それに対する自分の考えを持っていること」である。

外国語教育は否定せず、しかし最も大切なのは母国語および母国についての学びである。いずれ文科省が言い出すと思う、「もっと日本語および母国について見直しましょう」と。そしてまた学習指導要領が改定される。

2/11/2011

学校の立て直し

Facebookの友だちとのやり取りから、学校の立て直しについて考えてみた。

学校教育立て直しについての基本方針は

  1. 学校としての取組方針を明確にし、全保護者に周知徹底する。教師と保護者が学校の問題点、現状を的確に把握し、共通理解を図る必要があり、それに対してどう取り組んでいくかという骨子を明確にしなければなりません。
  2. 学校の基本方針が決まったらそれを各学級や部活動において確実に実践しなければなりません。この線引きが生徒指導上最も大切なラインとなります。この線引きが曖昧だとクラスによって、あるいは指導する先生によって誤差が生じてしまい、学級崩壊の序章となります。これがいわゆる共通理解であり、指導する先生個人の考えを反映させてはいけない部分なのです。先生が自分の個性を発揮するのは、指導の方法のみであり、「ならぬものはならぬ」というそのラインの是非を問うてはならないのです。
もしもここまで徹底することができたなら、学校あるいは学級としても崩壊することはまずないと言っていいでしょう。実はこの部分が学校の取組として最も難しい部分であり、教育の根幹となる部分です。指導上の枠組みを明確にし、かつ確実に実践することができれば生徒たちはその枠組みの中で安心して学校生活を送ることができます。
ただ現実問題としてここまで出来ていないために学級崩壊が起こっています。教師個々の指導力にも関わる問題でもあるし、採用の問題点や学校内の研修の問題点も絡んできます。

実はこの枠組、荒れた中学校を立て直すときには必ずやっていることなのですが、教師が危機感を持つまで常に忘れ去られています。荒れた学校を立て直すときには教員総入れ替えも行うことがあります。それだけ教師の意識が大切なのです。

この学校の雰囲気作りが子どもたちにとっては最も大切な事であり、学校の雰囲気によって救われる子どもたちも大変多いのです。我儘な行為をできない、自分勝手な振る舞いができない雰囲気では、その行為に及ぶことが自分を孤立させたり、浮いたりしてしまうものなのです。
「ここでは馬鹿をやっても仕方がない」
その雰囲気を醸成することが最も大切な教師の責務なのです。

ここまで学校の雰囲気が良くなっていれば、問題行動の芽が発芽することが少ないのですが、やはり心に深い傷を追っている子は決められた枠をはみ出してしまいます。あとはこのはみ出した子をどのように個別指導していくか、そしてはみ出した子に追随しようとする子をいかに切り離すか、が課題となってきます。
極端に学校の指導の域を逸脱している場合には、やはり児童相談所や生活安全課の力を借りなければなりません。

最後に最も今後頭を痛めそうな問題は常識が通用しない保護者であると思いますが、何の根拠もなく非常識なことを持ちかける親はほとんどいないはずであり、自分の子どもが学校生活を楽しみ、満足していればクレームは起きにくいはずなのです。
しかし、実態は教師が言葉の選択一つを誤ったために誤解されてしまったり、逆に子どもに真意が十分伝わらず、保護者が感情的になって怒鳴りこむケースが多いと思います。

学校、学級での指導に法律的な問題が全くなければ、後は感情論のみとなりますが、これが最も厄介なのです。ここまでこじれてしまった場合は、その保護者に好きなように対処してもらうより方法はありません。逆に学校に非がなければこの方法が最善の選択になることがほとんどです。
結局感情的になって非常識な対応をしてくる保護者は、その保護者自身が自分の仕事上などで同様の目に遭わなければ目が醒めることはないからです。

このようなケースになると保護者にばかり目を奪われがちですが、こどもの存在を忘れてはならないし、クレームの多い非常識な親であっても子どもは別な話です。

結論は出ませんが、最後の最後は非常識な親は何を言ってきても相手にする必要はありません。その非常識である親の子が大人になった時に、真っ当な価値観を持てるように教育的な指導を続けていくしかないのかもしれません。
それが10年先か20年先かはわかりませんが、今子供たちに指導していることがいつか結実して欲しいと願って指導を継続するしか道はないように思います。

学校における校則無視の日

中学校には授業以外に関係の無い物は一切持参してはならないことになっている。それも昼休みに巡視したりするとマニアックなアニメ雑誌を読んでいたり、お菓子を食べていたり、体育の授業後に¥500ほどの香水をふりかけたりしている。
見ていると本当に面白いのです。昼休みの人格が別に見える子がいたり、「こいつこんな趣味があったのか?」と新たな気づきがあったり・・・。

基本的に見つけたものはその場でお預かりして放課後返したり、担任の先生に預けたりしているが、年に1日だけ見て見ぬふりをすることがある。

そーです、バレンタインデーです(^^)

一応、建前上バレンタインデー近くなると、「チョコとか学校には持って来ないでね」と指導しますが、女子生徒からは
「今日渡さないでいつ渡すの?」とか
「夜遅くに出歩いてもいいの?」とか
「あたしの愛を邪魔しないで!!」とか・・・

たしかに学校に持ってくる以外に渡す術なしなのです。夜中に出歩かれても困りますしね・・・。
女子生徒が好きな男子生徒に渡すことがほとんどなのですが、渡している現場に遭遇したりしたらとりあえず無視してやり過ごします。

若い男性教師とかももらっちゃたりして・・・
「チョコとは持ってきてはダメなんだけど・・・・・・・ありがとね!」
ということになります。

面白くないのは俗にいうお局様とよばれる50代前後の女性教諭です。
「各クラスで指導したんだから、ダメなものはだめでしょう?」
あなたは正論!
でもね、男のプライドとしては無下に断るわけにはいかんのですよ(^^)
年に1回ぐらいいいじゃないか〜と言いたいけれど、毎年「あはは」と笑ってお局様方の鋭い切先をかわすバレンタインでした。

2/09/2011

新大卒は現場にはいらない

大学生には申し訳ないけれど・・・・・・・
毎年大学を卒業したての初々しい先生が誕生するが、現場にとってはお荷物以外の何ものでもない。
せめて3年以上の講師経験を経てから担任を受け持って欲しい。講師である3年間は自分の専門教科の指導に専念すべきであり、学校という組織について必要最低限学んで欲しいと思っている。その3年間でいろいろな学校に赴任し、本当に自分が教師としてやっていけるのか、自分にはその資質があるのか、自分に問い直すべきだと思う。

そこまで言い切る理由は、自分の同僚であった女性教諭が自殺した苦い経験があるからだ。
彼女は新採用であり、学級担任を任されていた。彼女なりに一生懸命だったけど、その気持ちが子供たちには通じていなかった。(本当は通じていたのだろうけど、わかっていても中学生は反発したりするものです)

彼女は大変穏やかな家庭に育ったため、おそらくほとんど叱られるという経験はなかったのでないかと思うし、大声で怒鳴られるようなことも皆無だったようだ。四十九日に自宅に伺ったときに彼女のご両親とお話ししてそれは間違いないと感じた。
叱られたり、怒鳴られた経験がない人が他人の子どもに対して叱ったり、怒鳴ったりはできるものではない。
説諭すればいいだろう?と言う人もいると思うが、「◯◯くん、それはやってはいけませんよ!」なんて言おうものなら「うるせぇ!!」で終りになる。
彼女は自分が育つ過程において親から受けた指導と子どもに指導する態度のギャップを痛感していたのだろう。
クラス40人のうち10名ほどは彼女の言うことを聞かなくなっていた。おそらく彼女にとっては地獄だったろうと思う。
2年目は学担を外れ(彼女の意思で外れたのではなく、校務分掌上外すのが彼女のためだろうということで外された)休職となったが、復帰間近となった秋、彼女は自らの命を絶ってしまった。

子供たちを指導する際に思うこと、それは子供たちが生育環境で学んできた「叱られる」という基準と先生のそれが一致しないのは当たり前で、ギャップが激しい場合には教師のパフォーマンスが絶対的に必要だということだ。
あくまで教師自身の「叱られ基準」を適用すると、生徒たちは悲鳴を上げるかもしれないし、逆にのさばるかもしれない。だから指導するときの見えない基準を明確に設定しなければならない、それは個人の価値観という基準ではなく教師として、あるいは学年や学校の指導基準としてだ。

話が随分それてしまったが、教育実習は単なる「先生ごっこ」に過ぎない。だからあの程度の「お遊び」が学校の先生の仕事だと思ったら大変なことになる。
教員採用試験は30歳を過ぎても受けるチャンスはある。だからその前に民間企業でいろいろな経験をしてから意を決しても遅くはないし、大学4年次の採用試験に不合格ならぜひ講師として教育委員会に登録し、補充教員として講師経験を積むことをおすすめする。

その選択が最終的に自分自身を守ることにも繋がる。

もしも幸か不幸か教員採用試験に現役合格してしまったら、その時は意を決して取り組んで欲しい。生徒の前に立ったら、あなたの後ろ盾は何も無い。目の前の子供たちをたった一人で受け止めなければならないから・・・。

2/07/2011

生徒59人の答案書き換え 大阪・八尾の中学講師

教育:イザ!に面白い記事が掲載されていた。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/489780/

生徒の答案の間違えている部分を先生が正答に書き換えていたという話。
この行為自体は子どもたちのためにはならない行為。
つまり、先生は自分の為にやったということですよね。

キーポイントはこの先生が常勤講師(正式採用された教諭ではなく、期限付き)であること。
そして”点数が上がる=指導力がある”となると、その後の彼にどんなメリットがあるか、ということでしょうね。

昔、福島県の場合は教員採用試験受験の際、年齢制限があった。当時は34歳が上限だったと記憶している。でも各都道府県によって受験上限年齢はバラバラではないかと思う。50歳以上で校長に任命されたりしているので、年齢制限自体が撤廃されているところもあるのではないか。(ただ、校長と一般教諭は別扱いになるかもしれない)

問題の講師の場合、指導力があるということで採用試験に有利になったりすることがあるのかもしれない。実質は試験当日の成績のみで採用が決定されそうな気もするが、優秀な講師経歴があればもしかしたら校長推薦とか、「口添え」のようなケースも考えられるのではないか。

また、採用上のメリットが全くないとしても、優秀な講師であれば期限終了後も改めて講師採用となったり、他の学校からも引く手あまたとなることも考えられる。

3年生の教科担任ということでプレッシャーも相当のものがあったはずだ。事実、年配になると3年生の授業は受け持ちたくないという教師もいるぐらいだ。
指導力に定評がなければ保護者からのクレームも出てくるだろう。

彼にとっては、たとえ水増しであっても自分が指導したことによって生徒の学力が向上したという結果、それが唯一の生き残る方法だったのかもしれない。

※次回は教員採用について書きます。

2/06/2011

教育は料理に似たり

 教育は料理に似ていると感じます。

○ 教育行政は充実した教育を行うための器であり、すぐれた調理器具でなければならない。

○ 教育機関は素材の味を最も活かすための料理人、職人でなければならない。

○ 子どもたちは無限の可能性を持った素材である。

素材が持っている素晴らしさを生かすも殺すも料理人次第であり、同時に料理人が腕をふるえるいい道具が必要ということですね!

ただ、料理との違いは料理人の腕のみで味が決まるわけではなく、素材自体が自分自身で味を変化させていくことができるということでしょうか?

学校の管理職(教頭)

前回校長について書きましたが、今回は教頭について・・・

毎年3月末になると教員の人事異動が発表になりますが、新任の教頭欄をみて愕然とすることがありました。
同僚教師からも「あのバカが教頭になるようじゃ学校はおしまいだ」とか「どれほど商品券を積んだんだ?」との声が上がっていました。同じヒラ教諭で仕事をしていればその人となりはわかりますので、いかに指導力の無い人間が管理職に就いているかということです。(勿論教頭職として適正な人も多く適任と思われる同僚もかなりいました)

今は商品券云々はない(たぶん)とは思いますが、教頭として不適正な人間が多くなってきているようです。
教頭職はあくまで校長の補佐なのですが、事務処理が非常に多くなりますし、実務上学校は教頭を中心に動いていると言っても過言ではありません。しかし最近では事務処理がずさんな教頭も多く、管理職として降格すべき人間も多いのではないかと感じています。

たとえば

  • 外部から受理した書類をずっと自分で保管し、担当教諭に書類を渡さなかった。(当然会議の出席依頼も知らないため外部からクレームの電話が入ります)
  • 通知表を下書きを期限よりかなり早く提出したのに、確認作業を全く行っていない。
  • 朝から携帯を手放さず、いつも何かを打ち込んでいる。
  • 校長不在時、問題が起きても適切な指示を教諭に与えることができない。常に校長の指示待ち人間。
  • 書類の提出期限を守れない。
など、これも現場の教員からアンケートをとったらすごいことになりそうな状況です。

こういう方々が将来校長になられるわけですから、あとは推して知るべし、ということですよね。

しかし、一日も早く校長になってほしいと思うようないい教頭にも出会ったことが何度かあります。
全校生徒名簿に生徒の身体的に配慮すべきことや問題行動などを記録し、名前を挙げればすぐに生徒の顔と名前、過去の履歴がわかる教頭。問題行動への対処について指導を請うとその場で最も適切な指導方針が即答で返ってくる教頭。学校としての指導方針を守れない教師に対しては厳しい態度で臨むことができる教頭。事務処理が完璧で、学校の運営について早めに対処できる教頭。

やはり優れていると思われた教頭は教育熱心で何より子どもたちのことが大好きであり、学級経営も緻密で、生徒指導に秀でている方が多いと思います。

ある校長先生は、教頭時代に常に胸のポケットに辞表を入れていたそうです。暴君であった校長とやり合っていつでも辞表を出す覚悟をしていたそうです。
彼はいい校長先生になりましたよ。
これからはそこまで腹の据わった教頭は現れないかもしれません!

学校の管理職(校長)

学校には校長と教頭という管理職があるのはご存知の通りで、教頭は校長の職務を助けるのが仕事、校長は最終決定権者となります。当然何かあれば校長が責任を負うことになるわけです。

最近では、校長が一般教諭の評価を実施しているようですが(言わば校長による教師の通知表)、その評価自体も大変曖昧であると言えます。つまり、本来であればその教諭の授業を参観したり、学級経営や生徒指導の状況調査、校務分掌における責任遂行能力、勤怠状況など、様々が項目を自らの目で観察、調査、面談を行って評価すべきなのですが、実質的にはそんなマメなことは行っていない校長がほとんどのようです。しかし年度末に校長が評価を下し、評定文書を個々の教員に渡しています。

ろくに学校内の巡視も行わず、問題行動の多い生徒の名前も覚えていないような校長がどうやって評価を下し、評定を付けているのか不思議でなりません。(一応評価項目はある)

校長が評価を下すのであれば、一般教員も管理職としての校長の能力を評価すべきであると思いますね。
残念ながら管理を独裁と勘違いしていたり、教育者として人間性をを疑わざるを得ない校長も多いのです。

具体的には

  • スキンシップと称して女性教諭の体に接触することが頻繁である。
  • 問題行動やいじめについて、その生徒の名前すら記憶していない。
  • 授業が始まっているにもかかわらず教師を校長室に呼び出して、説教を続ける。
  • 生徒が行方不明中にもかかわらず朝から自宅に戻っている。自宅で何をしているのかは不明。
  • 始業時間後にすぐに自宅に戻る。そのまま後は出勤せず。
  • 大きな問題行動等が起きた際、まったく自分では判断が下せない。
  • 出張と称して美術館巡りをしていた(これは報道されたことがある)
  • 校長室に高額な備品を揃える(例えば椅子1脚30万など・・・)
と書き出したらキリがない。

笑い話になりますが、現場では役に立たない教諭だから管理職になると揶揄されます。

しかし子どもたちのために管理職なってほしいのは、いつまでも現場に残って直接子どもたちを指導して欲しい教諭であり、学習指導、特に生徒指導で人並み以上の苦労をした教諭です。
大きなトラブルが起きた際に迅速で的確な判断ができない教諭や保護者のご機嫌ばかりをとるような迎合教諭は管理職としては適任ではないのです。

サル山の大将にでもなった気分で大口を叩く校長がいますが、そういう管理職に限って問題が大きくなるほど保身にまわります。責任逃れの便が多くなるのは、日頃からデカイ口を叩く校長の共通した特徴なのです。本当に管理者として能力が試されるのは、大きな壁にぶつかった時であり、その際の判断力と行動力ではないでしょうか?

これからは管理職試験と現場での適正な評価も十分加味して選任すべきであると思います。

私はいい校長にあたることが多く大変恵まれていました。
しかし、地区によっては三大巨頭と馬鹿にされる校長連中がいたり、定年退職の送別会では職員全員が心から万歳三唱を行ったとの噂も聞いたことがあります。

教育を立て直すのであれば、やはり教員の質を向上させ、教育者として真の指導力がある人間を育成しなければならないのです。

2/03/2011

会津藩 什の掟

白虎隊で知られるわが福島県の会津藩。その会津藩には「什の掟」があり、藩教育の骨格を形成していた「きまりごと」でもあります。

会津藩 什の掟
1.年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2.年長者には御辞儀(おじぎ)をしなければなりませぬ
3.嘘言(うそ)をいう事はなりませぬ
4.卑怯な振舞(ふるまい)をしてはなりませぬ
5.弱い者をいぢめてはなりませぬ
6.戸外で物を食べてはなりませぬ
7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです


いかがでしょうか?
ほとんどが現在の教育にもそのまま当てはまるものばかりではないでしょうか?

勿論、異論を唱えたくなる場合もありますが・・・特に7は、世のお父さん方は「とんでもない、時代錯誤もいい所だ」と言いたくなるでしょうが、奥様方にとっては「うちの旦那のためにある掟」とおっしゃるかもしれません (^^)

福島県議会では、「子育てしやすい福島県づくり条例」が可決され、この「会津藩 什の掟」についても条例前文で触れています。

子育てしやすい福島県づくり条例
http://www.pref.fukushima.jp/gikai/fu_10/data/jourei/04.html

毎日jp記事
http://mainichi.jp/life/edu/child/archive/news/2010/12/20101209ddlk07010162000c.html

YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20101125-OYT8T00208.htm

福島民報
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4147&mode=0&classId=&blockId=9760955&newsMode=article

清水敏男議員のTwitter
http://twitter.com/#!/shimizutoshio/status/5543644987658240



あってはならない思想教育

教育:イザ さんに教育現場の実態について書かれていたが、あまりにも教師の愚行といえるものなので一言書きたい。
記事は下記の通りです。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/489464/

この記事に出てくる教師たち、教員という立場を利用した思想教育(しかもその思想は非常に浅い知識であり、短絡的な思考、何とも形容しがたい馬鹿さ加減)をしているにすぎない。

こんな授業がまかり通っているようでは、日本の子どもたちに明るい未来はないだろう。
子どもたちが自分で学習して後々正しい知識を習得し判断してくれることがほとんどであると思いたい。そして、「自分の小学校の担任はアホだった」を気づいてくれれば嬉しい限りだ。

もちろん、すべての教師が同様の授業を展開しているわけではなく、同じ組合員であっても常識的な授業をしている人間がほとんであるが、万が一自分の子どもがこの「はずれくじ」に当たったら悲惨である。
現在の組合という偏向教育組織、思想教育団体は即刻壊滅すべきだと感じる。

組合というのはあくまで自分達の労働条件の改善について議論し、申し立て等行う組織に限定して再編すべきだ。その対象は、管理職権限を自己満足のためだけに使用し、あたかも独裁者のように振舞っている校長である。