12/13/2013

嘉納治五郎師範は泣いているだろう

まず下記転載記事をお読みいただき、どのように感じるだろうか?

・・・転載開始・・・
「人の生涯で、素晴らしい人との出会い、正しい教育、充たされた環境の中で培われ、育まれることにより、各人が人として立派に形成されるのではないか」と須坂氏は冒頭で問いかけ、それらの条件を満たすものとして日本の武道文化、「とりわけ柔道によって全て充たされるものと信じています」と続ける。
 さらに、須坂氏は「日本人が豊かな生活と便利と快適を求め続けた」と指摘し、「経済大国の美名の下で『叱ることの出来ない日本社会』が作り出されてしまいました」と嘆く。
 たしかに、現代において一部の親や教師などが子どもたちを「叱れない」という指摘は当たっているかもしれないが、問題は次の一節である――「現在の日本は、誤った暴力観と言うか愛のムチも体罰も区別がつかない大人が横行したため、子供たちは、愛のムチの痛さ愛の鉄拳の痛さも知らずに、世におくり出され、そこで遭遇するあらゆる想定外事案におびえ、おののき、不幸な結果をまねいてしまう」、「柔道の少年修行者は、道場において少なからず、愛のムチ愛の鉄拳痛みを経験するでしょう。『弟子がにくくて、殴る師匠はいない』 愛の鉄拳は、痛みの中に熱い情を感じるものである。これを体罰と受け止める子供はいないはず。叱ることのできない現在の日本社会において『武道』(柔道)こそ、この“じれんま”を解消させる唯一の手段と信じています。」 
・・・転載ここまで・・・

叱ること=鉄拳制裁 かつ 唯一の手段 と結論づけている。

柔道を指導する人間は、言葉を理解することができないほど知能が低いから暴力でしか教えることができないのでしょうか?
愛のムチという身勝手な理論と暴力で痛みを覚えれば、社会に出て不幸な結果を招かないのでしょうか?

こんな身勝手な理論は指導者として失格である。
子どもたちの心を育てるために真摯に柔道に向き合い、熱心に子どもたちを指導している他の指導者たちにとって失礼極まりない暴言である。

己の非を認め、律することすらできない人間が武道の精神を語れるのか?
柔道の人間教育は殴ることで成り立っているのか?
それが嘉納治五郎師範の教えなのか?

さらにもう1つ転載させていただく。
・・・転載開始・・・
【5】 「無事故」で定年を迎えたい? 相原中学松本雅之校長の思惑
 以上、【1】~【4】まで、おもに柔道界の問題点を指摘したが、最後に相原中学の松本雅之校長の言動についてふれておきたい。
 2010年4月に相原中学に赴任した松本校長は、赴任の年から在学生らが住民票を移して寝泊りしている柔道場での暴力について「不知/関知しない」との立場を採った。
 大手メディアによる暴力報道があっても、「柔道場は学習塾と同じ扱い」といった発言をし、批判を浴びた。さらに、暴力問題に嫌気がさして転校を決めた生徒が久しぶりに登校して来た時には「転校の理由が柔道部にあることは、クラスで発言しないように」と生徒に何ともオメデタイ口止めまでしているのだ。これが教育者のすることかと残念に思う。
 さらに、そのオメデタイ松本校長――2014年3月に定年を迎えるそうで、学校関係に詳しい人物に聞くと、処分歴が無く“無事故”で定年を迎えられるとだいたいどの自治体でも〈教育功労賞〉などの金一封が退職時にもらえるとのこと。おそらく松本校長もそのような計算があって、これまでの暴力問題についてひた隠しにして来たのかもしれない。その陰で、どれだけの生徒が悔しい思いを噛み殺して来たことか、学校関係者は考えてみるべきだ。
・・・転載終了・・・

生徒が学校敷地内の柔道場に住民票を移し、そこで暴力問題。柔道場は学習塾と同じ扱いで関知せず、しかも生徒に口止め。

開いた口が塞がらない発言。
こんな馬鹿が校長をやっているから日本の教育は良くならない。
このような校長は懲戒免職でいいだろう。給与、退職金の無駄遣いだ。
しかし教育委員会も同等の立場ということなのか?それも呆れる。

上記はJANJAN BLOGさんより転載させていただいた。
ぜひ記事全文をお読みいただきたいと強く思う。

JANJAN BLOG 現職警察官による暴力 ―問われる柔道界トップの〈愛の鉄拳〉論―

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