1/04/2012

子供たちの自殺(1)〜教育機関

子供たちの自殺、これほど心を痛めることはない。

小学生、中高生も短絡的(この言葉は適切ではないのかもしれない。考えぬいた挙句の結論なのだろう。あくまで第三者が使う言葉か?)に死を選択してしまうことがあり、しかも死の連鎖を引き起こすことも過去に多々あったように記憶している。

相変わらずいじめによる自殺が跡を絶たないが、ほとんどの場合いじめた子供たち、亡くなった子供に寄り添っていた子供たちも深い傷を負う。おそらく彼らの親御さんも同様だろう。
そして、大人になってもふとした瞬間にその辛い思い出が脳裏をよぎる。おそらく死ぬまでその辛い思い出を引きずっていかなければならないだろう。

しかし、現場の教師たちや教育委員会、教育事務所等、尊い命が消えたこと、一人の子供の死をどれだけ深刻に受け止めているのだろうか?

私の目には、教育関係者が「命の尊さ」よりも「表沙汰にならない事」を優先しているように思えてならないし、彼らにとっては「事実が表面化しないこと」が最優先課題であり、「自分たちの責任を問われないこと」が最も大切なのだろうと感じている。
もしも自分が管理あるいは担任しているクラスのこどもが自ら死を選び実行したら、職を辞すべきか悩む、職を辞さずとも少なくともその後の教師人生が一変する筈であり、それが人としての通常の感覚だろうと思う。
しかし今の教師という職に就いた大人たちは、自殺が起きれば管理職が緘口令を敷き、公にならないことだけを祈りつつ、公になった場合の対処のみ綿密に教育委員会と連絡を取り合っている。
マスコミでの会見はあくまで「その場しのぎのパフォーマンス」であり、事前に練りに練られた内容なのだ。(練りに練ってあの程度か?

「今後同様の事故が起きないように指導を徹底します。」
次から起こさないのは当然であり、一番問題なのはなぜ今回起きてしまったか?学校としての指導の問題点は一体何だったのか?それを明確にして自覚と指導内容を改善しない限り、ほとぼりが覚めた頃にまた同じ事故が起きる。

個人的には良い教師もいるが、その質を向上させるだけのシステムがない。システムとしてあるのは上司の命令を忠実に守るか、上司の指示がない限り行動してはならないという公務員独自の閉鎖的体質(職によっては命を救うためにその命令系統が必要な場合も当然ある)。「自ら考え行動できる生徒」と育成すべき教師が、指示がないと自分で行動すらできないのだ。

もう今の教師たちの指導力では子供たちの命を守ることはできないのかもしれない。
事実、放射能から我々の子供たちを守ろうとしなかったではないか?

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