12/26/2013

教師に求められるもの

 教師として求められるもの、色んな意見が出てきそうですが、私個人としては次の2点が最も重要だと思います。

  1. 授業が上手いこと
  2. 生徒指導ができること
 授業に関しては必須条件です。このための先生なので、授業が下手、あるいは授業が成立しない教師は教師の資格なしです。

 生徒指導ができること、これは非常に広範囲になるのですが、例えばまず学級経営がしっかりできていること。子どもたちの個性を見極めつつ、集団としての質も高め、生徒たちを納得させるだけの価値観や指導観を兼ね備えていなければならないと思います。
一朝一夕にできることではないし、自分の今までの生き方に関わるものなのである程度の時間を要するかもしれませんが、教師という仕事はパフォーマンスなのでなるべく早く身につけなければならない絶対的な資質と言えます。

 その他、部活動の指導力がある先生も魅力がありますが、全国で1位になったとか、そういう結果のみで教師として高評価を下してはならないのです。
なぜなら、真面目にやるのは部活動の指導のみで、授業もろくにできず、滅茶苦茶な学級経営をしている教師が実在するからです。保護者としては結果で判断し敬う方もいらっしゃいますが、同じ教師からすれば「役に立たない教師」に過ぎません。

 部活動の指導はできないよりできた方がいい。しかしそれしかできない人間は教師としては不適格なのです。部活動のみなら外部からプロの指導者を呼んだ方が質は確実に向上するのですから。

 授業が上手く、学級や学年の生徒指導を安心して任せることができ、部活動の指導も優秀なら言うことはありません。

 ※悪いことをした生徒を叱ったりすることが生徒指導と誤解されがちですが、子どもたちをいかに守り育てるか、つまり学校の指導すべてが生徒指導の中に包括されているのです。

 どんな先生か確かめるには、まず授業を見に行きましょう。授業が上手い先生か、下手な先生なのかか。
そしてその先生が担任しているクラスを見ましょう。クラスの子どもたちの雰囲気は先生の生徒指導の現れなのです。(脅しによる緊張感のある無言の状態がいいわけではありませんよ)
 そして最後に部活動の指導を観察する。

ここまで観察して問題点がなければその先生は子どもたちに好かれる先生であると思います、たぶん。

 

12/20/2013

民間人校長二人採用〜宮城


河北新報 東北のニュース/宮城県教委 民間人校長2人採用 着任は4月 http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/20131219t11028.htm @kahoku_shimpoさんから

 宮城県でも2名の民間人(電力会社と銀行)の校長採用が決まったようですが、大阪でも失敗しているだけに頑張って欲しいものです。

 以上!

 これで終わりじゃつまらないので

 以前大阪の民間校長の件でも書いたのですが、学校という現場において民間企業の感覚で校長という職務に就くのは困難を極めるだろうと思います。新しい感覚を取り入れて特色ある学校作りをしたい、してほしいという願いは十分わかるのですが、最悪の場合校長が自死を選択するケースもあったほど追い詰められる現場でもあります。

 教育現場においての難しさは
  1. 教職員が非協力的・批判的になり、校長と意見対立することが多い。民間出身の校長であれば尚更風当たりが強いかもしれない。
  2. 語弊はあると思うが、民間企業というのは営利目的で利益が最優先される組織であり、それが社員の給与に直結するため組織としてまとまりやすい傾向はあると思うが、公立学校という現場ではその意識は全く通用しない。いじめがあろうが生徒が自殺しようが教職員の給与に影響することは滅多にない現場である。
  3. 学校の主役は子どもたちであり、その子どもたちの実態把握なくして学校経営はあり得ない。利益のための経営と人を育てるための経営、これが企業との決定的な違いであり、50歳を過ぎた校長が子どもたちの中にどれだけ入っていけるか、それで校長の質が決まるだろう。
  4. 保護者の理解と協力が得られるかどうか。保護者は民間出身の校長に期待しつつも怪訝する雰囲気もある。子どもに関してのクレームは民間企業のクレームの比ではないし、校長自身がクレームの窓口対応者となる。
 企業経営のつもりで単にシステムを構築するだけであれば、おそらくそう時間はかからずに進むだろう。つまり、校長が上司として職務権限を最大に使い「職務上の命令」を行使すればいいだけの話である。
でもそれをやったら職員会議が紛糾する、企業では考えられえないほどの怒号が飛び交う、単なる理想論者である校長の命令など簡単に無視することができる。

 教師との関係もだが、保護者とのトラブルをいかに回避できるか、それは腕の見せどころになるだろう。企業なら「代替品で」「弊社の商品券で」、あるいは非を認めてひたすら謝罪して乗り切ることもできようが、学校という現場はそれができない。下手に保護者に迎合してしまったら学校の生徒指導が崩壊することすらあり得る。

 あとは子どもたちとの関係をいかに築き、特色ある学校づくるを子どもたちといかに進めるか。実態把握ができないことには特色も何もないし、単なる理想論なら誰で打ち上げることができるわけだし。

 民間採用校長の人気は6〜9年ほどだが、今の学校制度に風穴をあけて特色ある学校作りを目指し、生徒たちが「卒業したくない」と思うような学校を目指してほしいものです。

また辛口になってしまいましたね(^^ゞ



12/19/2013

体罰考

 体罰は是か非かと問われれば当然「非」である。
これは刑事事件にも発展するし、民事訴訟にも至る。教員の場合には服務規程違反にもなる。
 ただし、学校現場において体に少し触れたりするぐらいの程度が体罰と訴えられるのであれば、それはそもそも形成すべき人間関係がない、ラポートがないという状況に他ならない場合。例えば、教師を嫌う生徒にとっては、その教師の言動すべてが不快そのものであり、きつい言葉を浴びせられれば言葉の暴力であり、体に少しでも触れようものなら暴力以外何ものでもない。間違いなく何か原因があってそうなっているわけだが、人としての信頼関係がない以上、同じ行為でも感情が先に立って容認出来ないのである。

 どこからが体罰かという点はさておき、なぜ体罰が起きるかについて考えてみたい。
結論を言ってしまうと「子どもを預かり育てることよりも、自分の欲求や感情が優先されるから」。

 まず最も多いのが「指導者の地位保全・絶対性の保全」。
これを保つことができれば自分の意のままにクラスや組織、団体を経営することができ、指導者にとって最も快適な場を構築するために体罰を使用する。

 第二に「大人としてのプライドを保つ」ことが目的の体罰。
これも学校現場では多いのではないだろうか。
要は「子どもたちになめられたくない」という気持ちの現われである。

 第三に「子どもに従順さを押し付ける」ための体罰。
これは上記と重複するかもしれないが、大人に従順なこどもはいい子、という己の過去を振り返ることすら出来ない意味のない価値観の押し付けといえる。

 そして最後、これが最も問題であろうと思われる「指導力・指導理念の欠如」。
このような教師はその日の気分で怒り狂う場合もあるし、特定の生徒を目の敵にしたり、思いつきや行き当たりばったりで強い指導を行う。こんな教師を子どもたちは絶対に信頼しない。
 生徒たちから見て、「罰すべきを罰することができる教師」、「ダメなことをダメと言える教師」、「生徒たちが納得できる指導ラインが常にブレない教師」、「誰に対しても公平に指導できる教師」などは間違いなく信頼できる教師の資質を備えているし、安易に体罰を振るうことなどない。

 私も色々やったほうなので大口を叩くことはできないのですが、上記4つが体罰に至る教師側の問題点だと思われます。
 体罰の弁解として「感情を抑えきれず、ついカッとなって殴ってしまった」とありますが、その根底にあるのは上記4つのいずれかです。実は感情的になって殴ることはほとんどないと思います。子どもたちの言葉で言えば「ムカつく」から殴ったということになるでしょう。極稀に、体罰を振るったことのない教師が涙ながらに生徒を殴ることもあるかもしれませんが、その場合は体罰として訴えられることはまずないでしょう。

 各項目について説明したい点は多々ありますが、いずれまた!

12/13/2013

嘉納治五郎師範は泣いているだろう

まず下記転載記事をお読みいただき、どのように感じるだろうか?

・・・転載開始・・・
「人の生涯で、素晴らしい人との出会い、正しい教育、充たされた環境の中で培われ、育まれることにより、各人が人として立派に形成されるのではないか」と須坂氏は冒頭で問いかけ、それらの条件を満たすものとして日本の武道文化、「とりわけ柔道によって全て充たされるものと信じています」と続ける。
 さらに、須坂氏は「日本人が豊かな生活と便利と快適を求め続けた」と指摘し、「経済大国の美名の下で『叱ることの出来ない日本社会』が作り出されてしまいました」と嘆く。
 たしかに、現代において一部の親や教師などが子どもたちを「叱れない」という指摘は当たっているかもしれないが、問題は次の一節である――「現在の日本は、誤った暴力観と言うか愛のムチも体罰も区別がつかない大人が横行したため、子供たちは、愛のムチの痛さも愛の鉄拳の痛さも知らずに、世におくり出され、そこで遭遇するあらゆる想定外事案におびえ、おののき、不幸な結果をまねいてしまう」、「柔道の少年修行者は、道場において少なからず、愛のムチ・愛の鉄拳の痛みを経験するでしょう。『弟子がにくくて、殴る師匠はいない』 愛の鉄拳は、痛みの中に熱い情を感じるものである。これを体罰と受け止める子供はいないはず。叱ることのできない現在の日本社会において『武道』(柔道)こそ、この“じれんま”を解消させる唯一の手段と信じています。」 
・・・転載ここまで・・・

叱ること=鉄拳制裁 かつ 唯一の手段 と結論づけている。

柔道を指導する人間は、言葉を理解することができないほど知能が低いから暴力でしか教えることができないのでしょうか?
愛のムチという身勝手な理論と暴力で痛みを覚えれば、社会に出て不幸な結果を招かないのでしょうか?

こんな身勝手な理論は指導者として失格である。
子どもたちの心を育てるために真摯に柔道に向き合い、熱心に子どもたちを指導している他の指導者たちにとって失礼極まりない暴言である。

己の非を認め、律することすらできない人間が武道の精神を語れるのか?
柔道の人間教育は殴ることで成り立っているのか?
それが嘉納治五郎師範の教えなのか?

さらにもう1つ転載させていただく。
・・・転載開始・・・
【5】 「無事故」で定年を迎えたい? 相原中学松本雅之校長の思惑
 以上、【1】~【4】まで、おもに柔道界の問題点を指摘したが、最後に相原中学の松本雅之校長の言動についてふれておきたい。
 2010年4月に相原中学に赴任した松本校長は、赴任の年から在学生らが住民票を移して寝泊りしている柔道場での暴力について「不知/関知しない」との立場を採った。
 大手メディアによる暴力報道があっても、「柔道場は学習塾と同じ扱い」といった発言をし、批判を浴びた。さらに、暴力問題に嫌気がさして転校を決めた生徒が久しぶりに登校して来た時には「転校の理由が柔道部にあることは、クラスで発言しないように」と生徒に何ともオメデタイ口止めまでしているのだ。これが教育者のすることかと残念に思う。
 さらに、そのオメデタイ松本校長――2014年3月に定年を迎えるそうで、学校関係に詳しい人物に聞くと、処分歴が無く“無事故”で定年を迎えられるとだいたいどの自治体でも〈教育功労賞〉などの金一封が退職時にもらえるとのこと。おそらく松本校長もそのような計算があって、これまでの暴力問題についてひた隠しにして来たのかもしれない。その陰で、どれだけの生徒が悔しい思いを噛み殺して来たことか、学校関係者は考えてみるべきだ。
・・・転載終了・・・

生徒が学校敷地内の柔道場に住民票を移し、そこで暴力問題。柔道場は学習塾と同じ扱いで関知せず、しかも生徒に口止め。

開いた口が塞がらない発言。
こんな馬鹿が校長をやっているから日本の教育は良くならない。
このような校長は懲戒免職でいいだろう。給与、退職金の無駄遣いだ。
しかし教育委員会も同等の立場ということなのか?それも呆れる。

上記はJANJAN BLOGさんより転載させていただいた。
ぜひ記事全文をお読みいただきたいと強く思う。

JANJAN BLOG 現職警察官による暴力 ―問われる柔道界トップの〈愛の鉄拳〉論―

12/12/2013

体罰という観念の形成

 体罰って突然おきるのでしょうか?誰しもが行ってしまうのでしょうか?

 変な言い方ですが、体罰は受け継がれますよね?
自分が実際体罰の現場に遭遇してそれが当たり前の環境となっていたり(見たぐらいでは実際に手は出さないと思う)、自分自身が体罰を受けており自分の経験がごく一般的であり、正当な行為の尺度となってしまっていたり。

 まず体罰という経験をなくすことが下記のような事件を防ぐことになりますよね。
指導者のあり方については過去に書いたので割愛します。

 結びつきの強い人間が本気で怒り、感情的になって平手打ち。
この平手打ちは相手の人生に多大な影響を与え、劇的に変わることだってあるのは事実。

 難しいね〜^^;

【下記はAmebaに投稿した記事のコピー】
桜宮高体罰 男子生徒遺族 大阪市を提訴|MBSニュース-MBS毎日放送の動画ニュースサイト- http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE000000000000003244.shtml @mbs_newsさんから

親御さんとすれば当然の措置だろう。

手塩にかけて育ててきたわが子が、法令違反にもかかわらず長年放置されてきた体罰教師によって追い込まれて自殺してしまったわけだから。

 しかしこのような事件があったにも関わらず体罰事件の報道が跡を絶つことはない。

指導者というのはその組織のピラミッドの頂点であり、自分の指導が浸透しやすいようなシステムを構築しなければならない。自分の指導力を誇示し、常に地位を保ち、従順な下僕を育てるために使われる手段が体罰であり、それは指導の一環である。そのシステムの構築こそが常勝につながるのである。

さしずめ体罰とは彼らにとってこの程度の認識ではないだろうか?

戦後教育の腐敗のツケ、これは容易に改善できるものではないが、何十年かかろうともひとつひとつ悪しき習慣や意識の芽を摘んでいかねばならない。